BOHEME「ボエムですか、あいにく当店では扱っておりません」 東急ハンズの文具コーナー。 小柄な彼女がグリーンのエプロンの前に両手を合わせて答えた。 「私も一度見ましたけれども、とってもステキでした」 僕は彼女に取扱店を教えてもらい、下りエスカレーターに乗り、地下鉄経由で栄の「丸善」に胸を躍らせながら向かった。明治屋の隣のビルに入り、大好きな本や文房具には目もくれず、1階の万年筆売り場に直行した。 モンブランの特別仕様のモーツアルトなんかはケース内に陳列されているが、目指すものはやはりない。 彼女が言った言葉が本当なのだと再確認した。 「モンブランがブランド化しようとしているため、デパートなどの文房具売り場にはございません」 僕は店を飛び出し、足早に栄から矢場町を目指した。ナディアパークを通り過ぎ、スクランブルの交差点を渡り、松坂屋に飛び込んだ。 紺色の帽子を頭にちょこんと載せた清楚な香りのする受付嬢に文房具コーナーを尋ねた。 「どんな文房具ですか、モンブランの専門店は2階にございます」 「そっ、それです」 彼女の大きな瞳にお礼をし、エスカレーターで2階に上がると、そこはブランドが総ぞろいして並んでいる、僕が普段あまり入り込まない雰囲気のフロアだった。シャネルを始めとしたブランド店がひしめいている。 不似合いなデイパックを背負った僕は店を探してブランドフロアをうろうろしていた。 ダンヒル専門店の前、ブラックを基調とした、こじんまりとしたショーケースの一角がそこだった。 ブラックスーツに黒ぶちの小さなメガネをかけた彼女に、乾いた喉から言葉をかけた。 「ボエム、ありますか」 彼女は正面のケースを指差し、「ここにございます」と僕の心を案内してくれた。 ボエムがいた。 ショーケースの中で黒く輝いているそれは、思ったよりも短く不恰好に見えた。 彼女は細い指を真っ白な手袋に入れ、僕の手に渡してくれた。 やっと巡り合えた。 ボエムが胸ポケットに刺すために生まれたために「ポケットモンブラン」、略して「ポケモン」と呼ばれていること、時計や皮製品などと同様の装飾品として扱われているため愛知県ではこのコーナーでしか買えないこと、やはりモンブランファンから注目を浴びていることなど、彼女は巧みに僕の気持ちをハイな状態にさせてくれる。 僕は衝動買いする気持ちが爆発する寸前で思い止まり、彼女に「また来ます」とお礼を言って、モンブラン専門コーナーを後にした。 それから、雑誌の紹介記事を見たり、ファッション誌のモデルがさりげなくスーツの胸ポケットに刺しているのを見たりして、約1年あまりの憧れの時間が流れた。 2回目に、コーナーを尋ねた時には、万年筆のほかにボールペンとシャープペンシルが追加されていた。 このときも、ちょうどA5版の手帳に合う筆記具を求めていたので、衝動買いしそうになったが、我慢してエレガンスで分厚いカタログをもらうだけで帰ることができた。 その後、隣に座っているM君がモンブランのボールペンとシャープを購入し、胸に刺しているのを見て、だんだんと僕のボエムへの気持ちが高まってきていた。 そして3回目の出会い。 ボエムシリーズには、ルビーとサファイアとオニキスの3色があったのだが、新しくグリーンストーンが追加されていた。 また、女性をターゲットにしたハート型の石も新発売されていた。 ブラックスーツで決めている2人の彼女たちの柔らかい曲線を描いた胸ポケットには、それぞれ2本のボエムが輝いている。 彼女は胸ポケットからルビーのボエムを抜いて、そのまま僕に握らせた。 「私も、インクのレッドを入れて使っています」 もう我慢できない。 ボエムを手に入れることを彼女たちに表明した。 まず、石の色。ブルーとグラックで迷ったが、スーツ以外に夏のシャツにもサファイアのブルーが光りますという、彼女の甘い言葉に酔わされて、ブルーをチョイス。 インクの色は、ブラック、ブルーブラック、レッドはいつも使っているので、ボルドーとブルーで迷ったが、ボルドーは乾いて時間が経つとブラウンぽくなるという彼女のアドバイスに従い、ブルーをチョイス。 ペン先の太さは、MかBで迷ったが、Bは小さな文字の日本語を書くと滲んでしまうが、個性的な文字になるということで、非日常的なロマンを付加してBをチョイス。実用的にはFかMが妥当だったかな。 支払いカードのサインを書く時には、彼女が胸に刺していたボエムのボールペンを「どうぞお使いください」と渡してくれた。 僕は筆記具が魅力を持つのはこんなときに強く感じるのだと思う。 何気ない文字をステキな道具で生み出すことはとてもセクシーだ。 明日からボエムは僕のポケモンとしてデビューする。 追伸 カタログから一部抜粋して紹介します。 モンブランの世界 人々の生活のペースがますますめまぐるしくなったこの時代において、人生とは何か、私たちに考えさせてくれる何かが必要です。 友情とは、また、各個人における個性とは何かを、考えさせてくれる何か。 私たちには、自分の時間を取り戻すための何かが必要です。 黙想にふける時間、読書する時間、手紙をかいたり、旅をする時間。 あるいは、ただ単に絵画や風景、子供を眺める時間。 美を鑑賞し、物事を感じとる時間。 本当に大切なことに接する時間。 モンブランは、人生のこのような視点に貢献したいと願っています。 |